44歳の僕がステージ4の大腸がんと診断されて

2016年大腸がん発覚。手術後、腹膜への転移が確認されステージⅣだと告知される。その後半年間に及ぶベクティビックス抗がん剤治療を受ける。2018年12月がん再発。アバスチン抗がん剤治療を受ける。48歳になりました。

6クール目の抗がん剤治療での入院と待合ロビーで書く心情【がん闘病記66】

この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の9月中旬ごろに書いたメモをまとめています。

6クール目の抗がん剤治療で3日間入院する。その初日

2016年9月。

今日から6クール目の抗がん剤治療のため再びいつもの総合病院に入院する。

もう慣れたもので迷うことなくいつも通り採血まで終えて、外科外来の待合ロビーで問診に呼ばれるのを待っている。

血液検査の結果が出るまで1時間以上かかるから、しばらくは待つことになるので呼ばれるまで最近の心情のようなものを書いてみようと思う。

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最近の心情

今、僕はもうしばらくは生きていけそうな気がしている。

ステージ4の大腸癌だと診断されたとはいえ、今のところ癌が異常増殖して緊急で再手術が必要だとか、血液検査で腫瘍マーカーの数値が著しく悪いとか、腹水がたまってきているとか、そのような特別にネガティブなことは聞いていないし抗がん剤の副作用のつらさはあるものの経過は悪くはないんじゃないかと思っている。

数か月前、がん進行度ステージ4の大腸癌だと告知されたときは生きた心地がしなかった。

たとえるなら死刑判決を言い渡された被告人のような気持ちだった。

そう遠くないであろう未来に「人生最後の日」を迎える時が来ることに怯え、混乱し狼狽しきっていた。

でも時間が経つにつれ、そんな恐怖の中心に長いあいだ居座り続けることもまたむずかしいということが分かってきた。

「慣れ」というものは良くも悪くも人の心に作用するものらしい。

加えて抗がん剤治療で入院するたびに行われる血液検査で腫瘍マーカーの数値が範囲内でおさまっているなど、ポジティブなことを聞くたびに薄皮のような希望が一枚、また一枚と積み重なり、徐々にその厚みを増していった。

 

癌患者であるという非日常

もしかしたらまだ生きられるかもしれない。

「人生最後の日」が遠のいたかもしれないと感じてくると、これまでのわがままで身勝手で怠惰な自分、エゴにまみれた自分が再び僕の中を溶け出したラードが流れるように満たしていく気がした。

「癌患者になる前の自分」が「癌患者である自分」を上書きしようとしてくる。塗りつぶそうとする。

癌とは縁遠い日常の自分と癌患者になった非日常の自分。

僕にとって「癌患者になる」ということはこれまでの人生から考えるとまさしく非日常な出来事だった。

日々、死の恐怖と悲しみ、孤独感に身を晒し、じりじりと炙られ焼かれるような苦しみがその非日常の中では続いた。

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朝は悲しみの中で目を覚まし、夜は恐れのなか眠りにつく。

恐怖と孤独と悲しみの炎に焼かれた心はむき出しになり、恐れや孤独の風に触れるたびまるで生皮をはがされむき出しになった肉のように心はヒリヒリと痛んだ。 

ただ、それは僕にとって悪いことばかりではなかった。

そのことが僕の心にそれまで脂肪のようにこびりついていたワガママさや身勝手さなどのエゴを取り除き、ただひとつの心そのものを純粋に感じることができるようになった。

これは僕にとっては今までにない経験で普段は気づかないことに感謝でき、そのことを素直に喜ぶことができる自分がいた。

これも僕にとっての非日常だった。

心のホメオスタシス

しかし死の恐怖や孤独感が遠のくと、たちまち「癌患者になる以前の自分」がむき出しになった心を上書きしようとしてくる。

心のホメオスタシス。

恒常性。

振れ幅が大きかった僕の心を以前の状態に保とうとする力が働いてくるように思えた。

例えば伸びたゴムが縮むように。

無理なダイエットで減りすぎた体重がリバウンドするように。 

 

加えて人間は他者から影響を受けやすく感じやすい。

明るく元気でポジティブな人と一緒にいるとなぜかこちらまで元気になったり、逆に暗く落ち込んだネガティブな人と一緒にいると引きずられてこちらも気持ちが落ち込んだりする。

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人は常に他者に同調し順応しようと作用する性質を持っている。

古来より群れで生活してきた人類の性質だと言える。

自分自身を上書きするのは昨日までの自分

それよりもなお、影響を受け感じやすいのが日常の自分、ルーティンの中にいる自分や慣れ親しんでいる自分を取り巻く環境であると思う。

例えば感動的な映画を見て「自分もあの映画の主人公のように生きよう!」と固く決意する。

そのときの心は確かに大きく変化している。その映画の主人公に同調している。

感動的な映画に限らずアクションものだったり任侠ものだったりジャンルは違えどその映画の物語や主人公に同調することができる。

でも映画館を出ていつもの自宅の最寄り駅に降り立ち、いつもの帰り道を通って見慣れた自分の部屋に帰るころにはすっかり元に戻っている。

なぜか?

それは昨日までの自分に同調し、上書きされるということ。

映画館を出る前の感情はすっかり以前の自分に塗りつぶされている。上書きされている。

見慣れた部屋の間取り、普段接する家族とのいつも通りの会話、毎週欠かさず見ているテレビ番組、風呂、歯磨き、ベッド。

まるで昔大好きで何度も繰り返し聞いた音楽を数年ぶりに聞いた時にそのころの思いや情景がいっきにフラッシュバックするのと似ている。

他者に同調した心の振れ幅をもとの場所に戻そうとする作用が働く。

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喉元過ぎれば熱さを忘れるでは…

もちろん僕も例外ではない。

がん進行度ステージ4の大腸癌を告知され、死の恐怖にかられていたときは

「もっと真面目に生きよう」

「いまに意識を向け、一瞬一瞬を大事に生きよう」

「周囲の人みんなに感謝して生きよう」

などと思っていたものだが死の恐怖が遠のくと、つい癌が発覚する以前のようにダラダラと日常を過ごしてしまう。

些細なことに腹を立て、イライラしてしまう。

ただ単に僕の性根がなってないだけなのかもしれないけど、これは気をつけないといけない。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」なんて言うけど僕の中にある癌の脅威が完全に無くなったわけじゃないし、安心するのはまだまだ全然先のことなのかもしれないし、もしかしたらこれから深刻な状況になるのかもしれない。

油断していると足元をすくわれるなんてことはよくあることだし、深刻になりすぎてもいけないけど楽観すぎるのもどうかと思う。

そしてせっかく素直に感謝できるようになった気持ちも簡単に手放すこともないんじゃないかなと思う。

 

問診が終了し、6クール目の抗がん剤治療が開始されることになった

そうこうしているうちに問診に呼ばれて、ついさっき担当医のウエノ先生の診察が終わった。

前回の入院で話が出ていた「6クール目の抗がん剤治療が無事終わったらCTの検査をする予定」は腫瘍マーカーの数値が大腸がんの手術をしたあとずっと範囲内で安定していることと腹膜播種(ふくまくはしゅ)はCT検査をしても判別が難しいくらいの大きさの癌なので次回予定していたCT検査は中止することになった。

中止になって残念なのが半分、安心なのが半分といった心境。

 

そして血液検査の数値は6クール目の抗がん剤治療を開始しても問題のない数値だったので予定通り抗がん剤の投薬は開始されることになった。

副作用まみれのこの身体に抗がん剤という苦々しい重しが容赦なくまた追加されることになる。

気が重いが耐えると決めたからには了承するしかない。

ウエノ先生には嫌そうなそぶりを見せないように気をつけて「はい、よろしくおねがいします」と言って診察室を後にした。