急逝した同級生の通夜式に出席する【がん闘病記84】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の10月中旬ごろに書いたメモをまとめています。
2016年10月。
7クール目の抗がん剤投薬後から8日経過
夜、昨日急逝した同級生のムラハシ(仮名)の通夜式に行く。
通夜葬儀は家族葬として自宅でとりおこなうらしく、早めに会場であるムラハシ宅に到着したにもかかわらず、既に屋内には入りきれないほどの人たちが集まっていた。
受付で香典を出そうとしたら「生前の本人の意向でお断りしています」とのことだったので出しかけた香典袋を収めて記名だけすることに。
結局自宅内には弔問客が多すぎて入りきれなかったので、祭壇がおかれている仏間に面した庭先に立って参列することになった。
僕の周りにもたくさんの人たちが庭に立って中の仏間の方を見ている。
結構な人数の参列者が屋内に入りきれないようだった。
そうこうしているうちにお坊さんの読経が始まった。
通夜葬儀は誰のため?
仏間に面した庭先に立ってお坊さんの読経を聞きながらふと思った。
それは通夜葬儀ってとどのつまり誰のためにやるものなんだろう?と思ったとき、それは亡くなった故人のためではなく残された遺族のためにやるもんだと思った。
少し乱暴な言い方をすれば亡くなった故人にとっては今生きている僕たちがいるこの世界のことなんてどうでもいいことだと思う。(少しどころじゃなくかなり乱暴かな)
もし魂というものがあるのなら、その魂は肉体を置いて別の世界に旅立っていったわけだから置いてきた肉体について右往左往してもしょうがない。
魂が置いていった肉体を見て「置いて行かれた、取り残された」と思うのは残された遺族や親しかった人たちの方だ。
残された彼らの悲しみを癒し慰め寄り添うために通夜葬儀、法事・法要のようなセレモニーが行われるんだと思う。
また、かなり乱暴な言い方になるが亡くなった故人にとってお坊さんがありがたいお経をあげようが立派な戒名をつけようがなんら影響はないと思う。(個人の見解です)
お経をあげてもらって立派な戒名をつけてもらった魂だけが天国と言われるようなところに行けるのなら天国は仏教徒だらけになっているだろう。
もしかしたら「ええそうですよ、極楽浄土(天国)には仏教徒しかいないんです」なんて堂々と言い放つお坊さんもいるかもしれないけど、僕からしたら「ああそうですか」って感じだ。(神事・仏事に関わる方々を否定しているわけではありません)
旅立った魂はその亡くなり方やささげられたお経や祈りの大小にかかわらず、その魂が選べば完璧に癒されているはずだ。(自ら「癒されない」という選択をする魂もある)
もし魂というものがありそれを作った神なるものが存在するのなら、そのプロセスは100%完璧なはずであり、完璧でなければ神なるものではなく不完全なるものになる。
逆に魂というものが無いのであれば死んだら終わり、テレビのスイッチを切ったら画面が真っ暗になるようなものなのだと思う。
僕はどちらかというと前者の方を信じたいからそう思っている。
遺族の気持ちに寄り添うことはできるはず
話しを戻すと通夜葬儀のセレモニーは死者のためではなく、現世界を生きる生者のためにあるもの。
だからご香典くらい受け取って欲しいと思う。
なぜならその理由として僕は父の葬儀の後、家族みんなでご香典の整理をしているとき参列者の方々にとても慰められた気がした。
金額の大小ではなく、その気持ちがあたたかく、とてもうれしかった。
よく「気持ちだけですが…」なんてセリフのあと金品の授受が行われるけど、ご香典の時は本当にその「お気持ち」を受け取った気がした。
誰にとってもお金は大事なもの、なんの見返りもなくおいそれと財布から出したくはないもの。
みんな大事な大事なお金を気持ちと一緒に包んでいる。
そんな気持ちがとてもありがたく、大切な人を亡くしたばかりのこのどうしようもない悲しみに寄り添ってもらっているような気がした。
確かに香典を受け取るとそのあとのお返しとか面倒なことが多い。
実際に熨斗袋(のしぶくろ)からお金を出して名簿を作り、お金を何度も数えて・・・なんて作業はとても大変だ。
そして香典返しの準備など手間がかかることが多いので残された遺族の負担を軽くするためにご香典を受け取らないとする気持ちもよく分かる。
だから一概にどちらがいいなんてことも言えない。
喪主であるお母さんのあいさつ
通夜式の時に話は戻ってお坊さんの読経と参列者の焼香が終わり、喪主であるムラハシのお母さんのご挨拶が始まった。(故人は独身だった)
お母さんのお話によるとムラハシは2日前の午後に体調不良を訴え、自分で病院を探して診断してもらったけどその時は体調不良の原因はよく分からなかった。
そして病院から帰った次の日に出社の準備をしていると急に倒れたらしい。
急ぎ、救急車を呼んだが既に心肺停止に近い状態だったとのこと。
そして市内の総合病院に救急搬送された。
僕の父さんが事故で救急搬送され、今僕が化学療法で入退院を繰り返している病院だ。
ムラハシのお母さんは救急搬送された処置室で先生にこう言われたらしい
「今息をしているように見えますがすべて機械で酸素を送っています、なんとか蘇生を試みましたがどうすることもできませんでした」と。
ムラハシのお母さんの話を聞きながら、今年の初めに事故で急逝した僕の父さんが処置室で機械につながれ酸素を送り込まれている場面がフラッシュバックする。
・
・
・
事故の連絡を受けて僕らが病院に駆けつけたときは父さんは既に心肺停止状態で、機械で酸素を送り込まれている父さんの胸は上下に大きく揺れていて、それはまるで息をしているように見えた。その光景がありありとよみがえる。
・
・
・
「これ以上は蘇生の見込みがないため機械を止めてもいいですか?」
そう医師に問われたムラハシのお母さんは首を縦に振るしかなかったらしい。
・
・
・
父さんの時と一緒だ。
父さんの時は同様のことを医師から告げられ、機械が止められた。
機械が止められるとさっきまで息をしていてように見えていた父さんが石のように動かなくなってしまった。
「ああ、やっぱり機械は止めないでくれ!このまま酸素を送っていれば何万分の一でも奇跡が起こるかもしれない!」
そんなことを思った刹那、医師が時計を見ながら臨終の時間を告げる。
母さんは泣き叫びながら既に冷たくなっている父さんの額に顔をこすりつけては何度も「お父さん!お父さん!」と叫ぶ。
その慟哭が機械音が止んだ静かな処置室に響き渡る。
・
・
・
ムラハシのお母さんの悲しみ絶望がどれほどのものか今の僕には分かる。
僕は庭先からムラハシのお母さんの話を聞きながら、必死に歯を食いしばり、涙をこらえようとしたけれどあふれる涙をこらえることができなかった。
今の僕はムラハシのお母さんの悲しみに共感し理解し寄り添うことができる。
同じ場所で同じ悲しみ、同じ絶望、同じ喪失を味わったことがあるから。
だからと言って何ができるでもなく、自分の無力さと悔しさを感じながら大勢の参列者と同様に悲しみに暮れつつその場を後にした。
家の外ではかつての級友たちとの再会が待っていた。
次回