父の命日に父に言いたい言葉【がん闘病記113】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2017年の1月下旬に書いたメモをまとめています。
父の命日
2017年1月。
12回目の抗がん剤治療から17日経過
今日は父の命日だ。
父が亡くなってから今日で丸一年たった。
どうしようもない悲しみであっても、それは時間とともに癒され解かれていくものだと一年経った今実感している。
父について
生前の父がどんな人物だったかというと、一言でいえば「いいお父さん」だった。
酒もタバコもやらずまじめだったがイタズラ好きでおちゃめな一面もあった。
仕事は職人気質なところがあり、定年を超えた70歳を過ぎてもその技術を買われて仕事を続けていた。
その一方で多趣味という一面もあり、まとまった休みが取れると大型バイクに寝袋を積んで1人で全国各地、北は北海道から南は九州の南端まで各地をツーリングしていた。
さらに冬になればスノーボード、夏になればシーカヤック、さらにはパラセイリングまでやったりしていた。
「陸空海、全制覇してやった」
得意げに話す父を今でも覚えている。
音楽も好きで、若いころから続けているクラッシックギターをよく弾いていた。
得意な曲は「アルハンブラ宮殿の思い出」という曲で
「この曲はなあ、難しいんやぞー」
と、弾けることをよく自慢していた。
新しいことが好きで自分専用のノートパソコンを買ってYoutube動画を楽しんだり、テレビゲームも好きでゼルダの伝説やバイオハザードなんかを夢中でプレイしていた。
性格的には短気なところもあるので昔はよく僕や弟とも衝突したが、晩年ではそのようなこともなくなった。
父と僕たち子供らとの関係はとても良好だった。
この世界の多くの親子間で問題を抱えている、もしくはその関係がうまくいっていない親子はたくさんいると思う。
その点を考えれば僕たちはとても幸せな親子だったと言える。
なぜ良好な親子関係を築けたのか?
その要因のひとつに父は僕たち兄弟が大人になってしばらくたつと、あっさりと父親のポジションから降りた。ということがあるのだと思う。
「今日から父親はやーめた」ということではなく、父権を振りかざして僕たち子供らをコントロールしようとすることを手放したという意味。
一般的にいくつになっても親は子の幸せを願うあまり子を自らの制御下に置き、不幸な道をたどらないように導きたい、コントロールしたいと思うもの。
それは子供が生まれたときから始まってある程度子供が成長すれば終わることもあるけど、本人たちも気づかないうちに50歳、60歳、もしくはどちらかが死ぬまで続いていくことがある。
これが親子関係がこじれる原因のひとつであると思う。
父はそのようなことはせず、僕や弟、妹に対して対等な存在、隣人であるかのように接してくれた。
そのおかげで僕たち親子は良好な関係を築け、父のことは家族全員が大好きだった。
そんな父だったが、ある日突然あっけなくこの世を去ってしまった。
事故の日
今からちょうど一年前の今日、父は仕事中の事故で急逝した。
今でもはっきりと思い出すことができる。
夕方に父の会社から連絡を受けて、心配そうな母を連れて病院に向かったときのことを。
電話では「崖から落ちた」としか伝えられなかったが、救急車が事故現場に到着した時には既に心肺停止状態だったらしい。
皮肉にも父が運び込まれた病院はその数か月のちに僕が大腸がんの手術をし、抗がん剤治療で入退院を繰り返すことになる病院と同じだった。
昼間の喧騒とはうってかわってひっそりと静まり返る夜の病院のロビーで、僕は泣きながら救急搬送後の処置が終わるのを待った。
弟も駆けつけて、母と3人で待った。
ほんのわずかな奇跡にすがりながらも、ほとんどが絶望的な気持ちで押しつぶされる中、静かに流れ出る涙を止めることがどうしてもできなかった。
ただ悲しみにもてあそばれていた。
その悲しみに対して僕はあまりにも無力で小指一本ほどもあらがうことすらできなかった。
医師から呼ばれ、処置室に入ったときのことを今でもはっきりと思い出すことができる。
ベッドに横たわった父が機械から強制的に空気を送られ、胸が大きく上下に揺れていたこと。
「なんだお父さん、息してるじゃないか」
そんな思いがか細い糸のように脳裏をよぎったが、すぐにすべてが手遅れなんだと理解する。
今でもはっきりと思い出すことができる。
医師から蘇生は絶望的だと言われ、蘇生を促す装置を止めることを承諾した時のこと。
看護師によって機械が止めらようとする刹那、心の中で叫んだ。
「やめてくれ止めないでくれ奇跡が起こるかもしれないやめて止めないでお願いだから」
そんな心の叫びが届くはずもなく、無情にも機械が止められ、全く動かなくなった父の手に恐る恐る触れてみると無機質に冷たかったこと。
母が父の額に自分の額をこすりつけ
「お父さんお父さんお父さああああん!」
と泣き叫ぶ姿を見て、どうしようもない悲しみが喉元から突き上げてきたときのことを。
僕は生涯忘れることはないだろう。
通夜葬儀告別式の日のこと
今でもはっきりと思い出すことができる。
大勢の人たちに弔問に訪れていただいて、このどうしようもない悲しみに寄り添っていただいたことを。
妹が父へのお別れの手紙を皆の前で泣きながら読んでいるときに、隣に座っていた弟が嗚咽をこらえることもできずに泣いていたことを。
出棺前、いよいよ最後の別れ。その棺のふたが閉められようとしたとき、母が父の遺体に覆いかぶさって「お父さああああん!」と会場じゅう響き渡るほどの大きな声で泣き叫んでいた声。その慟哭。
火葬場。箸でつまみあげた父の骨の軽さ。残り火のような熱。
それらを僕は生涯忘れることはないだろう。
事故の日から数日、僕はことあるごとに泣いていた。
いい大人である僕が、父を想って泣いていた。
恥ずかしい話だが理性のちからではこの悲しみにあらがうことはどうしてもできなかった。
1年経ってから
あれからちょうど一年経って「今からあの時と同じように悲しめ、泣け」と言われればそれは難しいことだけど、悲しみや寂しさが全くなくなったわけではない。
人は慣れていく生き物だ。
僕らも例外ではなく、お父さんが居ないこの世界に慣れてきたのかもしれない。
時がたてばもっともっと慣れてくるだろう。
だからと言って悲しみや寂しさがゼロになる日は来ないだろう。
ただ、これだけははっきりと分かるよ、お父さん。
お父さんには感謝しかないってこと。
ありがとうお父さん、そう思わなかった日は今まで一日もないよ。
そしてこれからもずっとそう思うよ、ありがとうお父さん。
1万回言っても足りないよ。ありがとうお父さん。