癌が僕にもたらした「変革」とは?精神的な変革について【がん闘病記78】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の10月上旬ごろに書いたメモをまとめています。
癌に感謝するということ
抗がん剤治療も予定の半分(2016年10月時点)を終えた今、僕はなぜか癌に感謝しようという心境になっている。
それは主に癌が僕にもたらしてくれた「変化」について感謝したいと思っている。
身体的に変革は前回述べたけど、癌は僕の精神面でも大きな変化を与えてくれたと思っている。
精神的な変革
自分自身が癌であると告知されるまでは僕にとって「自分の寿命が尽きる」ということはまだまだ遠い未来のことだと思っていた。
僕が生まれてから時を刻み、自分が進んで行っている時間軸の先、そのはるか先へ目を凝らして見てみても、その存在はまだまだ影すら見えないような遥か遠くにあるものだと思っていた。
「人生の終着点」
「命の終わり」
それらは遠い遠い未来のこと。
自分にはまるで無関係なこと。
70歳くらいを超えたおじいちゃんになってからぼちぼちと考えていけばいいかなあ…くらいに考えていた。
しかし、その「自分の寿命が尽きる」ということがステージ4の大腸癌を告知された瞬間に僕の目の前の見える範囲に突如として現れた。
その可能性がいきなり跳ね上がった。
僕は「自分の寿命が尽きる」ということを、その可能性が真実味を帯びてきたことを肌で感じることで大いに混乱し、恐れおののき孤独と悲しみの闇の中へ深く深く落ちていった。
その恐怖に質量すら感じる
そして孤独と悲しみの大波が僕の心をあっという間にさらっていき、僕の心は大型のランドリーに放り込まれたようにもみくちゃされ、翻弄された。
生まれて初めて感じる自分自身の間近に迫ったリアルな「死」。
その存在に質量すら感じる。
僕にとっての「死」は言うなれば…
冷たく突き放し、
全ての関係性から見捨てられ、
完璧なほどに孤独で、
冷風に晒され、
決して望まれず、
無機質で無関心で、
瞬間的に無になり、
暗く落とされ、
黒よりも暗い闇の中で、
大切にもされず、
ロウソク一本ほどの暖かみもなく、
悲しみの棘で締め付けられ、
行き詰まり収束して、
誰からも忘れ去られ、
追い出されるような拒絶を受け、
理解も共感も得られず、
現実世界から決して抗うことができない圧倒的な力で引き剥がされていく。
そんな感情が寄せ集めの団子のように固まり、僕の心に渦巻いていた。
頭は芯から重く感じ、気持ちはどんよりと落ち込みただただ寂しくて、ただただに悲しい。
その恐怖はまるで僕の心を真っ赤に熱せらた太い電熱線でジリジリとあぶり、焼き焦がすようだった。
恐怖に焼かれ続けた結果、変化が訪れた
そんな恐怖と孤独と悲しみに日々晒され続けた結果、これまで僕の心に青カビや赤錆のように食いつきまとわりついていたエゴやプライドやワガママで身勝手な感情が徐々に剥がれ落ちていった。
心にまとわりついていた脂肪のようなものが溶け出していく。
僕の心を覆っていたフィルターが取り払われ、心はむき出しになり白日の下に晒された。
そこで変化が訪れた。
そうなると見るもの聞くもの感じるもの全てがダイレクトに心の中に入ってきその全てに感謝の念が湧いてくる。
道端で清掃作業をしているおじさん、
はしゃぎながら楽しそうに笑う子供たちの声、
連れだって散歩している老夫婦の後ろ姿、
風に揺れる木々のざわめき、
ふいに差し伸べられたやわらかい手、
木漏れ日、
虫の声、
コバルトとオレンジが溶け出す夕暮れ、
夜道を照らす街灯、
月明り、
まっすぐな笑顔。
接するもの触れるもの全てが完璧だと思え、感謝と畏敬の念が心に流れ込み満たしていく。
震える。
その感覚に心が振動し、震えているのが分かる。
生まれてこの方、このような感覚は一度たりとも味わったことは無かった。
初めてだった。
普段からワガママで身勝手で厚かましい僕は「心から感謝する」なんてことは滅多になかったように思う。
恥ずかしいことだけど、「感謝しているフリ」やそのポーズなら大いにやっていた。
自分の人生に純粋に真摯に向き合い、全てを完璧なものとして受け入れ感謝する。
これは癌が僕に与えてくれたギフトの一つだと思っている。
しかし、人の性根というか性分は根深い
ただ、ステージ4の大腸癌だと告知されてからしばらく経った今では以前よりも「死の恐怖」がいくぶん薄らいだため、またワガママで身勝手な自分がちょいちょい顔を出して些細なことでイライラしたり、怒ったりすることもしばしばある。
この性分は僕の根底にあってかなり根が深そうだ。
気をつけないといけない。
せっかく変化を味わうことができたのだからその感覚は大切にしたい。