「無知である」ということはひとつの「価値」でもあるということ【がん闘病記81】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の10月上旬ごろに書いたメモをまとめています。
7クール目の抗がん剤投薬終了後の翌日
2016年10月。
化学療法も7クール目ともなると抗がん剤の副作用もやっぱりつらくなってくるようで、倦怠感のつらさ度は7くらいだろうか。
その他の副作用の影響は指先のひび割れと食欲不振くらいだけど、吐き気としてはあまりない。
食欲が無けりゃ無いで食べなきゃいい話で、どうせ食い意地が張ってる僕のことだから食欲が少しでも出てくれば自然に食べるようになる。
食べ物の消化にも体力を使うだろうし、今はプチ断食くらいはしてもいいと思う。
秋から冬に変わろうとする冷たさを帯びた空気が好きだ
7クール目の抗がん剤投薬後2日経過
今日は倦怠感がつらくて1日中寝ていた。
つらさ度で言うと8くらいかな。
季節の変わり目
寝てばかりでもイケナイと思い、夕方くらいには近くの自然公園に日課であるウォーキングに出かけることにした。
今日は10月の初旬。外へ出ると季節というか空気が変わった感じがする。
肌に触れる空気がちょっと冷たく感じ、夏の名残りがすっかり消えた秋の冷たい空気に変わっていることに気づく。
鼻から吸った空気の冷たさが鼻の奥で少しだけツンとくる。
僕は毎年のこの季節の変わり目が、この瞬間が大好きだ。
夏が終わって秋に変わり、冬の準備がはじまろうとしているこの瞬間が。
あと何回この瞬間というかこの時を感じることができるだろうか。
空の色の青も夏のギラギラした感じではなく、冷たく落ち着いているように感じられるこの季節を。
公園で遊ぶ子供たちを見て思うこと
7クール目の抗がん剤投薬後3日経過
相も変わらず抗がん剤の副作用の影響で身体はキツい。
倦怠感のつらさとしては6くらいかな。
でも吐き気とかはあまりないし、いつもなら出ている下痢の症状もまだないからマシな方なのかもしれない。
広場で遊ぶ子供たちを見てうらやましく思う
近所の自然公園に日課にしているウォーキングに出かけると今日は祭日のせいもあり家族連れでにぎわっていた。
悲鳴のような笑い声をあげて広場を駆けまわり、はしゃぎ遊ぶ子供たちの声が聞こえる。
この先、自分にもあんなテンションになるような出来事が訪れるのだろうか?
答えはたぶんノーだと思う。
たとえば仮に宝くじで何億円当たろうが、絶世の美女が僕に愛の告白をしてこようがあれほどのテンションにはならない。
ギャーっと悲鳴にも似た歓喜の声をあげて周囲を気にせず喜びに身を任せはしゃぎまわることはないだろう。
なぜなら大人だから。
想定内で起こりうる現実には内心では大喜びしつつも、大人としてある程度は冷静に対処できるようにこれまでの人生の中で訓練されている。
「あ、そうですか…いやあ、うれしいです」といった感じで。
スレている。といってもいいのかもしれない。
「忘却の魔法」でも使って記憶や経験をすべてリセットしない限り、新たな感動や喜びで心から叫び声をあげるようなテンションにはなりえないと思う。
僕は広場ではしゃぎまわる子供たちを見てとてもうらやましく思った。
ただ単に鬼ごっこをしているのに鬼に捕まりそうになるとこの世の終わりのような叫び声をあげてその状況を楽しんでいる。
その「経験に対するみずみずしさ」がとてもうらやましい。
「若さ」は「無知」であり、無知は「余白」である
よくお年寄りが「若い者はいい」なんてことを言うのは「肉体的な若さ」のことを言っている場合も多分にあるが、他にも「精神的な若さ」を指している場合もあるのではないかと思う。
「精神的な若さ」とは何か?
ただ単に経験のとぼしさからくる「未熟さ」ということではなく、未知なものに対する新鮮な感情、リアクションなのだと思う。
先ほどの鬼ごっこで心から楽しむ子供たちの「経験に対するみずみずしさ」も同様だと思う。
まだ経験していない、もしくは経験値が少ないがゆえにたくさんの「余白」がある。
心の余白部分、「まっさらな状態」であるが故、経験が新鮮に入ってくる。
「無知であること」が「既知であること」に変わるときのインパクトは大きい
何にしても「初めての経験」は強いインパクトがある。
ここで先ほどのお年寄りが「若い者はいい」ということに戻る。
お年寄りはこれまで長い人生を生きてきて、それこそたくさんの経験をしている。
もちろんどんなにたくさんの経験を重ねてきたお年寄りにもこの世界で知らないことや分からないことはたくさんあるだろうけど、これまでの経験上から分からないことや知らないことに対しての「予想」や「筋立て」をすることもできる。
良くも悪くも老獪さが備わってしまっている。
全く知らないことに対してみずみずしい気持ちで反応することは年齢を重ねるにつれ難しくなってきていると思う。
そういう理由から「若い者はいい」というお年寄りたちは「知らない」ということに価値がある、ひとつの優位性であるということを肌で感じているんだと思う。
若者たちは忘却している。
無知である。
その無知にこそ価値がある。
無知こそが心をたおやかにみずみずしく保っていられる。
人生がいつか終わりを迎えるその意味はその無知への回帰へのプロセスとして必要なことなのかもしれない。
そんな気がする。
僕もできれば無知であった無邪気な子供のころに戻りたいが、漬物が取れたての野菜に戻れないのと同様に決して叶うことはない願いなのだろう。
生きているうちは。