がん進行度ステージ4の大腸がんと診断されてから、ずっと身近に「死」を感じそれについて考えていた【がん闘病記112】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2017年の1月下旬に書いたメモをまとめています。
はじめに
僕は2016年の6月にがん進行度ステージ4の大腸がんだと診断されてから、いつも自分の身近なところで自らの「死」を感じていた。
なぜなら自分の中での先入観として「がん=死」というものが色濃くあり、そのなかでも最もがん進行度が進んでいるステージ4という事実はある意味「死刑宣告」に近いものだという認識が強くあったからだ。
僕のこれまでの人生の中でおぼろげに、うすぼんやりとはるか遠くに感じていた「人生の終焉」という期限が突然目の前に現れたようだった。
なぜ「がん=死」という認識なのか?
がんが原因で亡くなってる人をたくさん見てきたし、がんは自分を殺すものだと強く信じていたから。
ステージ4の告知を受けたとき、迫りくる「死」に対して僕は大いに恐れ混乱し、怯え震えていた。
これまでの人生の中で最も深い絶望感にさらされた時期でもあった。
自分が死ぬということが恐ろしくてたまらなかった。
「なぜこんなにも死ぬことが怖いんだろう?」
ことあるごとに考えた。
入院中など暇だったので病室のベッドの上でことあるごとに考えた。
その結果、「死の恐怖」からもうひとつ深く入ったところに「孤独への恐怖」があるのではないかと考えるようになった。
その孤独が恐れの源であると考えるに至った。
もっと細かく分けると、死がもたらすものとして
「死がもたらす断絶による孤独」
「死がもたらす離別による孤独」
「死がもたらす喪失による孤独」
というものがある。
そして「魂」というものがあるということを前提に考えれば、
「死がもたらす忘却」
というものがあるということを付け加える。
「死がもたらす断絶による孤独」とは
この世界で生きている多くの人たちが連続性の中で生きている。
たとえば一例として、時間は絶え間なく過去から現在、そして未来へと流れていくものだと多くの人が信じている。
朝は夜となり、月曜日は火曜、水曜…と流れ日曜日に移りかわり1月は12月へとその時と共に連続して流れていく。
僕たちはこの世界に生れ落ちたときからその連続性の中で生き、それを基とする常識や概念のなかで生活をしてきた。
この先の未来、科学技術が発達して時間を操作できるような手段が出来るかどうかは分からないけど、現時点では未だ神ならぬ僕たちがこの時間の連続性に干渉できる手立てはない。
僕たちはこの連続性の中に浸りきって生きている。
まったく疑うことなく、砂粒ほどの疑念すら抱かずに生きている。
夜は必ず朝になるし月曜日は曜日を重ね日曜日になると信じている。
そしてその確固たる確信のもとにこの連続性に多くの人たちが安堵し依存している。
どういうことかというと、当たり前のように「自分自身にはいつものように明日が来る」と、固く強く揺るがない山のような信念で確信をもってその幻想を信じ依存している。
「自分の生存が明日も確約されている」という幻想に依存している。(命の危機にさらされている状況にある人は別として)
今週見たテレビドラマの続きは来週も見れるのだと信じ切っている。
今日終わらなかった仕事の続きをまた明日できると信じ切っている。
大好きなあの人にいつものようにいつもの場所で明日も会えると信じ切っている。
多くの人たちがその連続性をまるで永遠のように長く続くものだという幻想にとらわれているが「死」がある限りこの連続性もいつか終わりを告げる。
その終わりは事故死のようにある日突然訪れるときもあるし、余命を宣告された患者のようにゆっくりと近づいてくる時もある。
永遠のように永い時間続くと思われていた連続性が「死」によって断絶される。
断ち切られる。
今週見たテレビドラマの続きはもう見ることができなくなる。
今日終わらなかった仕事の続きはもうできなくなる。
大好きなあの人にはもう二度と会えなくなる。
そしてもうひとつ、この連続性には「慣れ」という慣性がある。
人は慣れた場所、慣れた人、慣れた行動に安堵する。
「慣れ」は人に「死」遠ざける幻想を抱かせる。
例えば高層ビルの上階層の窓の清掃など、よっぽど肝が太い人でない限りは初心者はその仕事中に「死の恐怖」を感じるだろう。
しかし、経験を重ねその仕事にすっかり慣れたベテランともなるとその恐怖感は初心者ほどではなくなるはずだ。
それは連続性の中の「慣れ」が明日の自分の生存を確約するという幻想を抱かせ「死」を遠ざけるため。
しかし、「死」よる断絶を感じたとき「慣れ」による未来の自分の生存の確約も泡と消える。
たとえばさきほどのベテランになった窓の清掃作業者が何らかのミスで高所で宙づりになってしまったとする。
手を離せば落下してしてしまうという状況で「死」を感じれば「慣れ」による未来の生存の確約という幻想も消し飛んでしまうだろう。
連続性の安堵を支える「慣れ」が消え、それに依存できなくなると依存するものが無くなり孤独にみまわれる。
そして「死がもたらす離別による孤独」につながっていく。
「死がもたらす離別による孤独」とは
「死がもたらす断絶」によって自分との関りを持つ人・物すべてとは分断され、別れることを余儀なくされる。
その離別は「死」によってこれまでの人生で自分と関りをもち、コミュニケーションできた人たちとの関係性をすべてリセットし白紙の状態にしなければならないとという幻想を強く抱かせる。
人間関係だけではない。
いつも自分が過ごしている部屋、
通勤通学で見知った風景、
よく行く定食屋さん、コンビニ、スーパマーケット、公園、友人の家、大好きな歌、春の風、夏の匂い。
その他この世界のすべての関係性と離別しなくてはならない。
そうなると自分から見える景色には誰も映らずその影の端すら見えなくなる。
そして自分は誰からも見えなくなり認識されなくなる存在になる。
この宇宙でこの世界で自分ひとり、たったひとりなのだという幻想にとらわれ孤独にさいなまれ、その孤独を恐ろしいと感じる。
真っ黒な、もしくは真っ白な世界の中、自分以外の存在は何も無く、ただ永遠のように思われる静寂だけに包まれる世界。
親愛も友愛も殺意も怒りも喜びも悲しみも尊敬も不遜も哀れみも憐憫も…他者に対して決して感じることが出来ない世界。
そんな世界に永遠に留まり続けなくてならないという幻想にとらわれ、その「孤独」の恐ろしさに震える。
そして「喪失による孤独」へとつながっていく。
「死がもたらす喪失による孤独」とは
「死」によってもたらせる離別と断絶によって自分に関するものはすべて剥がされていく。こぼれ落ちていく。
所有することは許されず、自分のすべてはこの肉体すら自分から剥がされていく。
もし、魂というものが無いとするならすべて無に。
もし、魂というものがあるとするならその魂だけを残して。
愛する人たち、好きだった景色、仕事、芸術など物質的なものだけはなく、今まで培ってきた経験による技術や反射行動、思い出やそれに伴う様々な感情、思い、情動。
それらすべてが泡と消え霧散していき、無になる。
もしくはただひとつの魂に。
そして孤独になる。
全てに別れを告げ、全ての流れを断ち切り、静止した世界で無に溶け込んでいく。
もしくはただひとつの魂に。
そして孤独になる。
冷たく冷徹で無慈悲でなんの温かみもなく無機質で無感情で何からも無関係な、そんな孤独。
「そんな孤独に自分が包まれたら…」
と思うとたまらなく恐ろしくなる、怖くて怖くてたまらなくなる。
全てをはがされ、むき出しにされた自分がほんのちょっとでも孤独の風にふかれたらたちまち凍りついてしまいそうで恐ろしくなる。
死の恐怖のひとつ奥に入ったところにこれら断絶、離別、喪失による孤独への恐れがあるのだと思う。
そして「もし、魂というとものがあるのなら…」という考えを前提として「死がもたらす忘却」というものがある。
「死がもたらす忘却」とは
もし、魂というものがあるのなら「死」は幻想で「死」の先にはあたらしい「生」があるのだろう。
そして新しい「生」へのステップとして「忘却」がある。
少し話はそれるが、古来から多くの人が不老不死を望み夢見てきた。
その願いの源泉にあるのは「永遠の連続性の実現」に他ならないだろう。
先に挙げた「離別による孤独」、「断絶による孤独」、「喪失による孤独」を恐れた人たちが不老不死を望んだのだと思う。
しかしながら未だ神ならぬ僕らは不老不死の技術をまだ手に入れてはいない。
まあ、仮に不老不死の技術があったとしても僕は遠慮しておくけど。
話をもどして、不老不死でもない限り魂があることを前提に考えれば「死」の次にやってくるのは「生」だ。
仮に新しい「生」を受けたとしてもそこには過去世との連続性はない。
すべて忘れている。
僕たちは「死」を乗り越えて新たに「生」を受けることが出来たとしても、そこに過去世との連続性は存在しない。(過去世の記憶を持っているという人もいるが万人にはあてはまらない)
「喪失による孤独」と少し似ているような気もするが「喪失という幻想」か「忘却という幻想」かを見ているかの違いに過ぎない。
しかし忘却は必要なことのひとつだと僕は考える。
なぜ忘却が必要だと考えるのか?
結論から言うと、忘却は体験・経験をリセットすることができる。というのがその大きな理由。
なぜ体験・経験をリセットする必要があるのか?
それは体験・経験には限りがあるから。
どういうことかというと…
誰にだって「初めての経験」や「ファーストインプレッション」は一度しかない。
初めて誕生日ケーキのロウソクを吹き消したときのこと
初めて自転車に一人で乗れたときのこと
初めて友達とケンカしたときのこと
初めて好きな人に告白したときのこと
初めて好きな人から別れを告げられたときのこと
初めての料理、スポーツ、旅行、仕事、車の運転…
これらは人生においてたった一度しかないかけがえのないものだ。
これらの「初めて」は人生を重ねるにつれ急速に目減りしていく。
一度経験したキャンディーの味は何度食べても二度と「初めての味」にはなることはない。
どんなに素晴らしい映画作品でも1回目の視聴と100回目の視聴を全く同じ感覚で見ることはできない。
僕たちはこの世界に生れ落ちてから猛烈な速度でその「初めて」を消化していく。
多くの場合、二度目以降の経験が「初めての経験」や「ファーストインプレッション」のみずみずしさを超えることはない。
もしも先に挙げた「不老不死」によって永遠にこの「初めて」を消費し続けたらどうなるのか?
そこには「初めて」が存在しない、経験できない世界がまっている。
どんな人と会ってもどこかで会ったような顔、声、性格、考え方。
どんな映画を見ても今まで見てきたような似通ったストーリー。
どんな景色をみても今まで見たことがあるような景色。
どんなスリリングなゲームをしたとしても今までやったことがあるようなゲーム内容、ルール。
そこには新たな感動もみずみずしさもない、使い古されて退屈で枯れた世界がまっている。
「忘却」はそれらをリセットすることができる。
「死」の逆である「生」にフォーカスした時。
「生」の目的は何か?
なぜこの世界に生まれてきたのか?
その目的は何か?と考えたとき、そのひとつとして「体験・経験」があるのだと思う。
僕たちは「体験・経験」を味わうためにこの世界に生まれてきた。
「忘却」は経験や体験をみずみずしいものに変えてくれる。
これが忘却が必要なことであると考える理由。
僕たちは今こうして生きているそのさなかでも「初めて」を求め、探し続けている。その経験・体験を欲している。
その源泉にあるものは何か?
「好奇心」にほかならない。
この世界に生まれてきた目的のひとつとして、この「好奇心」を満たすためということも大いにあると思う。
多くの問いの答えがこの「その好奇心を満たすため」という答えにつながっている。
なぜ山に登るのか?なぜ虹の向こうが見たいのか?なぜあの料理が食べたいのか?なぜあの人と話がしてみたいのか?なぜあの本が読みたいのか?なぜあの楽器の音色が聴きたいのか?
好奇心。その欲求にあらがうことは難しいことであり、本来そのように人間はできていない。
最後に
こんなことばかりを病室のベッドの上で考えたり、抗がん剤治療の休薬期間中に散歩に出ていたときにぼーっと考えたりしていた。
僕としてはあまりスピリチュアルっぽいことは言いたくないし、もちろんこのことをさも「人生の真理だ」なんて他者に啓蒙する気もさらさらない。
ただのおっさんの世迷言。
考え。
思考の一部。
ただそれだけのこと。
もし僕がこの先にうまいこと十数年か生き延びて、ふとしたきっかけでこのテキストに触れることができたら顔を真っ赤にして恥ずかしい思いをするかもしれないし、存外に面白いこと書いてるじゃないかなんて思うかもしれない。
それもまた一興だと思う。
その時の僕の反応が楽しみだ。
これもまた好奇心のひとつだろう。