自分が思った通りの人生を生きているということ【がん闘病記121】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2017年の4月下旬に書いたメモをまとめています。
自分が思った通りの人生とは
「人は誰もが自分が思った通りの人生を生きている」
僕は最近そう考えるようになった。
そんなことを言うと、
「私が思った通りの人生を生きている?バカいってんじゃないよこんなに苦しいのに!」
なんて思う人もたくさんいると思う。
多くの人が「自分は思い通りの人生を、理想の人生を生きていない」と感じていると思う。
逆に「自分の思うがままの人生を生きている」と思って日々を過ごしている人はごくごく少数なんじゃないかな?と思うくらい。
でも多くの人の人生が「理想の人生」とはいかないまでも「自分が思い描く通りの人生」になっているんじゃないか、と最近は思うようになった。
人生は不平等だけど公平でもある
なぜなら僕たちには「ある程度の選択に対する公平さ」が与えられていて、その「選択」の積み重ねで人生が構築されていくから。
どういうことか説明する前に人生の不平等さについて言及しておきたい。
人生のスタートラインは人それぞれ違う
残念ながら人は生まれながらにして全ての人間が平等ではない。皆が同じスタートラインに立って人生をスタートさせるわけではない。
たとえば生まれながらにして
- 容姿がいい人
- 親が金持ちな人
- 才能に恵まれている人
- 皆から自然と愛される人
- 誰からも祝福されずに生まれた人
- 危険な地域に生まれた人
それぞれ生まれも育ちも肉体も頭脳も思考も環境も違う。
とてもじゃないけど平等とは言えない。
しかし公平ではある。
人は生れ落ちた瞬間に不平等なスタートラインにそれぞれ立ちながらも、その後の人生においては「選択」への公平さ、自由さは人によって違いはあるものの、ある程度は与えられている。
特に先進国で生まれ育った僕たちには。
人生は選択によって構築されている
人生はあらゆる選択で満ちている。
- ケーキを食べますか? Yes or No
- あと30分勉強しますか? Yes or No
- 勉強をやめてテレビを見ますか? Yes or No
- 走りますか? Yes or No
- 階段を使いますか? Yes or No
- 花を送りますか? Yes or No
- 告白しますか? Yes or No
- 何も言わずに立ち去りますか? Yes or No
- あきらめますか? Yes or No
などなど。
人生には数えきれないほどの「選択」がある。
僕たちは日常の中でその膨大な数の選択を無意識に、「反射」とも言っていいほど一瞬で行っている。
これらは自由に選択することができる。
結局のところ突き詰めていけば
「Yes」か「No」か「YesでもNoでもない(選択しない)」の三択になる。
選択を強いられているという誤解
選択の内容によっては一見不公平な選択を迫られているように見えることもあるが、たとえば拳銃をこめかみに突き付けられたり、家族や大事な人を人質に取られて強迫でもされない限りその選択は公平であり自由である。
仮に「ダイエット中なのにケーキの誘惑に負けてケーキを食べてしまった」ということがあったとして、「ケーキの誘惑」が大きな要因で「食べる」という選択を強いられたようにも感じるが、「ケーキの誘惑を押しのけて、食べない選択をする」ということも可能だし、それはその人の自由だ。
仮に会社の上司からパワハラに近い圧力で選択を迫られたとしても「別に命まで取られるわけじゃないや」と会社での人間関係を完全に無視してはっきりと「NO!」と言う選択をすることもできるし、その選択をするもしないもその人の自由だ。
大きな選択はフォーカスされるが小さな選択は意識されにくい
たとえば
- 家を建てる
- 会社を興す
- 結婚を決める
- 転職を決める
などといった大きな決断、選択は人生のターニングポイントとしてフォーカスされやすい。
でも、日常の小さな選択ひとつ取って見てもそれは人生のターニングポイントになりえる。
ひとつひとつの選択はとても小さくて、その選択が人生に影響を与えているなんてまるで思えないかもしれないけど、たとえば向こうが透けて見えるほどの薄皮でも何千何万と折り重なれば分厚い層になるようにそれぞれの人生を構築している。
走るという選択。野菜を食べるという選択。お酒はほどほどにするという選択。友達と楽しい時間を過ごすという選択…
そのひとつのひとつの小さな選択はいったい誰がしたのか?
自分自身に他ならない。
無意識であっても意識的であっても自分自身が決定したことに他ならない。
そう考えると多くの人が自分自身が思った通りの人生を生きていると言える。
その選択ひとひとつが人生に影響を与え、人生を作り出している。
もちろん突発的な事故やトラブルに巻き込まれて選択の余地が無い。ということもあるが「その場所にいた」という選択をしたのも自分自身であるともいえる。
世界中のすべての人に同じ自由度の幅を持つ選択が与えられているわけではない
ただし、人によっては生まれながらにしてその選択の「自由度の幅」が狭い人たちも確かに存在する。
たとえば創業から何百年と続く老舗の跡取り息子、親からひどい虐待を受けて育った人、有毒ガスが発生するごみの山で売り物になりそうなものを拾う子供たち、戦場で薬を飲まされ無理やり銃を持たされるゲリラ兵など。
残念だけどこの世界中のすべての人に同様の自由度の選択が与えられているというわけでもない。
そう言った意味でも人生は不平等であると言えるのかもしれないが、そんな状況の中でもより困難な選択を自らに課して人生を切り開こうとする人たちも確かに存在する。
極論を言うと、命を差し出すことさえいとわなければ選択の自由をその公平さを完全に奪うことは誰にもできない。
僕は自分が思った通りの人生を生きている
そして僕の人生も自分が思った通りの人生になっていると言える。
「ステージ4の大腸癌になっておいて何を言っている」
と思われるかもしれないが、癌に罹ることもこれまでの僕の選択の積み重ねによるもの。
- 暴飲暴食はしない。という選択もできた。だがしなかった。
- タバコは吸わない。という選択もできた。だがしなかった。
- アルコール度数の高い酒をガバガバ飲まない。という選択もできた。だがしなかった。
- 40歳を過ぎたらがん検診に行く。という選択もできた。だがしなかった。
まだまだたくさんあるけど、これらの選択はすべて僕が選んで僕の意思で決めたこと。
これまでの僕の人生でこめかみに拳銃を突き付けられて選択を強要されたことは一度も無い。
だから僕は自分が思った通りの人生を生きていると言える。
選択によって自分の人生を構築する
逆に考えると、このことはこれから先の人生も自分の選択次第で自分が思った通りに生きていけるという可能性を示唆しているともいえる。
- がんを再発させないようにもっと食生活などに注意して生活するという選択。
- がんに対する正しい情報をもっと積極的にあつめて自分の中に取り入れよういう選択。
- ストレスを貯めないような生活を心がけるという選択。
まだまだたくさんあると思うけど、今後この選択をしていくのは僕自身だし選ぶのも僕自身だ。
たとえこの先の未来で僕が癌が原因で死んだとしてもそれは僕の選択の結果でしかない。
誰も悪くないし誰の何のせいにもできない。
その結果に罪悪感も焦燥感も抱く必要もない。
弱音を吐いてもいい、強がってもいい。
落ち込んでもいい、浮かれあがってもいい。
それが僕が望んだ人生で僕が思い描いた人生だということなのだから。
今この瞬間にもある小さな選択。
そのひとつひとつに意識を向けることは可能だ。
意識的に生きるということはそういうことなのかなと今は思っている。