がんと診断されて1年が経過したけどまだ生きている【がん闘病記130】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2017年の6月上旬に書いたメモをまとめています。
がんと診断されてから1年が経過した
2017年6月。
2016年にがんと診断されてから今日で1年がたった。
思い起こせば1年前の自分はというと
「1年後の今日、自分は生きているだろうか?」
「生きていたとしても五体満足なのだろうか?」
「病院のベッドでさまざまなチューブにつながれ、息も絶え絶えの状態なのではないだろうか?」
なんてことをいつも考えていた。
死の恐怖におびえていた。
でも1年たった今、僕はこうして五体満足で生きている。
1年前から今日まで
約1年前、大腸がん摘出手術で大腸の一部を20㎝も切り取り、その後で腹膜への転移が確認され、がん進行度ステージⅣだと告知される。
その後、約半年間におよぶ熾烈な抗がん剤治療を経て今、僕は五体満足で日常生活に不自由することなく生きている。
抗がん剤治療終了から数か月が経過した今はその副作用に悩まされることもほとんどなくなった。
ありがたい。実にありがたいことだ。
がんと診断される前は「1年後の自分」というものは当たり前のように、当然のように間違いなく来ると思っていた。
しかし大腸がんと診断されてからは1年後の自分というものは割とレアなものになりつつある。
その可能性は狭まってきている。
今現在はたまたま抗がん剤が効いて症状が出ていないだけで、いつ何時また癌だといわれる日が来るか分からない。
それは明日かもしれない。
明後日かもしれない。
1ヵ月後かもしれない。
1年後かもしれない。
そう思うと今がベストな状態なのかもしれない。
僕にとって今この瞬間がこの先の人生で最も健康で平穏なときなのかもしれない。
そう思うと今日一日を大切に過ごさなければ。と思う。
もしかしたら次の扉を開けたら癌が待っているかもしれない。
癌は僕に向かって
「やあ、また来たよ」
なんて言うのかもしれない。
そのとき僕はなんて言うだろう?
「あーそうなんだ、来なくてもいいのにー」
って言うだろうな、きっと。
固定概念に縛られていた自分
僕は子供のころから自分のことしか考えない人間だった。
いかにして「自分が得をするか」もしくは「自分が損しないか」を考えていた。
周りの大人や世間、社会は
「自分のことばかり考える利己的な考えはいけないよ」
と、ことあるごとに僕を諭そうとするが、うわべでは「はい、分かりました」って態度を取って、心根では変わらず自分の損得のことばかり考えていた。
満たされていないという感情
なぜそんなことばかり考えていたのか?
その要因のひとつとして「満たされていない」という感情があったのだと思う。
「自分よりも満たされているように見える他人」と比較して自分は満たされてはいない、満たされたい、人よりもより多く満たされたいという感情があったのだと思う。
しかし、がんと診断されて以降は考えも変わってきて、満たされていないという感情は幻想ではないか?と考えるようになった。
満たされていると感じるか満たされていないと感じるかは自分の選択次第ではないかと考えるようになった。
たとえばコンビニに入る。
お金が足りていればそこでは自分が好きなものが買える。
たくさん商品があるなかで
「ここではあんパンしか買ってはいけません」
なんて強制されることは無い。
その選択は自由だ。
仕事や学校など、ある程度は拘束される時間はあるにしてもそれも1日のうち100%では無い。
自分の意見や要望を通し、自分の好きなことが出来る時間は人によって違いはあれど、ある程度は許されている。
もしかしたら満たされていないという感情は「自分には自由な選択ができない」という思いこみから来ているのではないかと考えるようになった。
僕は自分ががんと診断されてからは自分がやりたくないことはできるだけ断って、自分がやりたいことを優先的に選択するようにしてきた。
それまでは自分の人生では選択の幅は少ないと思っていたが、やってみればあながち自由に選択できるものだ。
「仕事はやめるべきではない」
「わがままを言うべきではない」
「人生は好きなように生きることはできない」
そんな固定観念に縛られて、鍵もかかっていない部屋に閉じ込められ、椅子にしばりつけられていたつもりになっていた。
でもその部屋に鍵はかかっていなかった。
僕は好きな時に椅子から立って歩いて、自分の行きたい方向に歩いて行ける。
割と思うがままなのだ。
それが分かると渇望がなくなる飢えなくなる。
もう満たされようとしてもがく必要はないんだと思うようになる。
自分自身にばかりフォーカスせずに他人にもフォーカスできるようになる。
僕のこれからの人生で僕が長生きできる可能性は少ない。
少ないからこそなるべくは他人の喜ぶことがしたい。
そう思うようになった。
限りある時間のなかで限りあることしかできないことは分かっているけれど、そうありたいと願う。