抗がん剤治療中に考える、ステージ4の癌と診断された僕の死生観【がん闘病記42】
この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の7月下旬ごろに書いたメモをまとめています。
僕が考える死生観
2016年7月。
2クール目の抗がん剤治療のため、昨日から入院して点滴を1人病室で受けている。(正確には4人部屋)
特にすることも無く、静かな病室でボーっとしているといろんな考えが頭をよぎっていく。
ふと、「生と死」だとか「生きる意味」とかについて考える。
僕はかねてより何かにつけては「人が生まれ滅びる意味とはなんだろう?」ということについて考えてきた。
誰しもこういったテーマについて一度や二度は考えたことはあると思う。
入院中は点滴以外に特にすることも無いので、この際だから考えをまとめて見ようと思う。
10代のころから現在に至るまで考えは変化してきた
僕のこれまでの考えを振り返ると10代のころは割と物質的というか唯物論的な考えで
「死んだらそこで終わり。無。テレビのスイッチを消したら画面が真っ暗になるようなもの」
といったような考え方をしていた。
そして20代30代と年齢を重ねるにつれ、いろんな経験や書籍を読んだりしていくうちになんとなく「魂」というものがあるのかなあ、という考えに至る。(これが真理であるかどうかはおいといて)
加えて「因果の法則」のようなものが考えの中に加わってきた。
「生という原因があって死という結果につながる。その逆も然り」
といった感じで、「生という原因」と「死という結果」、もしくは「死という原因」と「生という結果」を繰り返しているのが魂なのではないのかと。
しかしこの因果の法則を基準とした場合、なんだか腑に落ちない点が出てきた。
「悪いことをした人間が酷い死に方をする」
「悪いこと=罪、悪という原因」が「酷い死に方という結果」をもたらす。
いわゆる因果応報なんて言われるようなことだけど、これについてはなんとなく納得ができる。
でも、この世界には生まれてすぐに、もしくは何も悪いことなんかしないで無垢な存在のまま死んでしまう赤ん坊や子供たちがたくさんいる。
そんな子らはどんな罪を犯したというのか?
なぜ死ななければならなかったのか?
生まれて間もなく死んでしまう命に何の意味があるのか?
とてもじゃないけど納得できない。
ある人は「前世からの因縁」とか「業」であるとか「カルマ」だとか答えるけど、それでは何か腑に落ちないし、そんな不確定な要素に依存することでは心からの納得も得心もできない。 (ここで誤解しないでいただきたいのはいかなる宗教的な事柄やスピリチュアルな事柄を批判するものではないということ)
いまいち納得ができない僕はそこから色々と考えたのち、生と死の意味はつまるところ「自己表現」にあるのではないかと思うようになってきた。
自己表現とは
人は生まれて死ぬまで必ず他の誰かとなんらかの関わりを持つ。
全く他者との関りを持たずに生まれ死んでいくことは木の股からでも生まれない限り物理的にも不可能だ。
この世界はひとつの命に対して完全に無関心ではいられない。
少なくとも子は母との関りを最低限持つことになる。
少なくとも母は子に対して愛情であれ嫌悪であれ関心を持つことになる。
母と子の関係がこの世界で存在する人間関係の最小単位だと思う。
たとえば母親以外は誰もいない無人島で…
たとえば仮に母親以外は誰もいない無人島で生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊がいたとする。
最小限の他者(母親)との関りの中でその赤ん坊は母親との関わりをわずかな時間でも持ったことになる。
その赤ん坊はたった一人の母親というオーディエンス、観客にたいして「生まれてすぐに死んでしまう生命とはどういうことなのか」という表現をしている。
自分の身体を、命を使って。
命を落とした後もその母親が生き続ける限りは無垢なまま命を落としたものとしての表現をし続けている。
表現とは芸術やアートに限ったことではなく
表現と聞くと芸術とか芸能のようなアートの類を連想しがちだが、ここでの表現はそういった特別なことではなく存在そのもの。
「ただそこにいるだけ」で表現はなされている。
完了している。
誰のどんなたたずまいでもそれはひとつの表現になりうる。
そして観客の数は問題ではない。
一万人の前で踊ろうがたった一人の前で踊ろうが観客の数によって表現の本質が変化するということはない。
あくまでこのたとえ話では最小単位の話をしたまでであって、普通に人生を生きていればたくさんの人たち(他者)との関りを死ぬまでにもつことになる。
その答えとは
そう考えると「人はなぜ生まれ滅びるのか?その意味とは?」という問いにひとつの答えが浮かび上がってくる。
その答えは
「自分の命を使って自己表現をするため。その表現を他者に与えるため」
となる。
そう考えるとどんな生命にも意味がある。
どれだけ生きたか、誰と関わったかで表現の価値は変わらない。
無駄なことは何もない。そう思えるようになった。
しかし、この考え方も僕の身体に癌が発覚した後、人生について命についていろいろ考えるようになって徐々に変化していった。
その前に「因果の法則」についての考えかも変わってきたのでそのことについても触れておきたい。
因果と善悪の区別
加えて前述の「因果の法則」についても考え方が変わってきた。
そもそも因果の中に善と悪を絡めた感情論を挟み込もうとするのでおかしなことになるのではないかと思うようになった。
人はその現象を受け取るために理由付けをしたがる生き物
「なぜ罪もない無垢な子供が死ななければならないのか?」
という問いに感情論が絡んでくるとややこしくなる。
人は「死」という現象に対して理由付けをしたがる生き物だ。
理由付けをして自分自身の精神的混乱からなんとか立ち直ろうとする生き物だ。
<例>
「なぜ愛する人は死んでしまったのか?」
- 「寿命だったから」
- 「そういう運命だったから」
- 「逆に必要以上に苦しまずに人生を終えることができて幸せだったから」
こういった理由付けをしてなんとか心のバランスを取ろうとする。
誰かの理不尽な死に向き合ったとき、「罪」や「悪」もしくは「前もって決められていた運命」が原因となって「死」という結果を導いたとしなければ理不尽な死に対しては感情的には収まりがつきにくい。バランスが取れない。
混乱から立ち直れない。
たとえば人は「罪もない子供の死」という理不尽で感情的にも容易に納得できない「死」に対してその理由を探すために「なぜ?」を繰り返す。
- 罪もない子供になぜそのような無慈悲な「運命」が定められていたのか?
- その理由としてやはりなんらかの「罪」や「悪」の要素が関係してくるのではないか?
そんな疑問、感情になんとかして折り合いをつけるために「罪」や「悪」の要素を別次元の「前世」とか「業」とか「カルマ」から無理やり引っ張り込んできて結び付け理由付けて感情のバランスを取ろうとするからややこしくなる。
善悪と生存の可能性は別問題
そうではなく善悪の問題と生死の問題(生きやすさ、死にやすさ)は全くの別問題なので分けて考えなくてはならないということ。
ここで初めの問いに戻る。
「なぜ罪もない無垢な子供が『死』という結果に至らなくてはならなかったのか?その原因は何か?」
という問いに対しての答えは単純でシンプルに
「死に至りやすい体質、身体の性質をもって生まれたため」
もしくは
「死に至る可能性が高い危険な地域、もしくは環境に生まれたため」
ということが原因としてあげられる。
この答えはとてもドライで血が通っていない答えに思われるかもしれないが突発的だったり理不尽な死に対しての理由を善悪と分けて考えるとこうなると思われる。
罪を背負って生まれたりはしない
前述のたとえ話の「無人島で生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊の例」で出てきた赤ん坊も同様なことが言える。
その赤ん坊には前世から持ち越した罪など無い。
ただ誕生時の身体的特徴や生存に適さない環境が死に至る理由だったというだけのこと。
そして「生まれてすぐに死んでしまう生命とはどういうものなのか」という表現を完遂するためのプロセスとしてそれらが必要であり、それ無くしては表現は完遂されなかった。
ただそれだけ。単純でシンプルな理由から。
ネガティブなことを受け取るために罪悪感を感じる必要はない
そしてこの罪、善悪と因果の誤解は癌をはじめとする難病にかかった人たちも陥りやすい。
癌が発覚した人の多くが最初に癌であることを告知されたときにこう思ったことだろう。
「なんで俺が?なんで私が?」
「これまでまじめに生きてきたのになぜこんな仕打ちを受ける?」
「いったい私がどんな悪いことをしたというのだ!」
言うまでもなく癌に罹患(りかん)する原因は善悪とは関係ない。
原因として考えられるものがあるとすればそれはこれまでの飲酒や喫煙習慣、ストレス耐性、食生活、はたまた遺伝によるものなどが挙げられるし、それらは医学的にもある程度は有効なエビデンス(証拠・確証)が得られている。
ある日突然降って湧いた「癌への罹患」という理不尽な事柄に対しての理由付けとして善悪の要素を因果関係に絡めて心のバランスを取ろうとする気持ちは癌患者である僕には痛いほどわかるし心当たりもたくさんある。
「きっとこれまでの行いが悪かったせいだ」
「ご先祖様を大事にしなかったせいだ。因縁、業が深いせいだ」
そんなことをつい考えてしまいがちだが、それとこれとは別問題として考えないと薄靄の中を漂うように余計に混乱が深まるばかりになってしまう。
過去の罪が癌を呼び寄せたなんてことはない。
「こんな目にあうなんてきっとバチが当たったんだ…」
そう思いたくもなるかもしれないがバチなんて当たらない。
関係ない。
癌患者だからといって罪の意識や正体不明の罪悪感にさいなまれる必要なんて無い。
自分自身を責める必要も貶め呪い恨む必要も無い。
絶対に無い。
今の僕はそう確信している。
このように癌患者となってからいろいろと考えていくうち因果の法則に関しての考え方は変化していき、そして先に述べた「自己表現」に関する考え方もまた変化してきた。
実は自己表現は副産物だった
ステージ4のがんを告知され様々なことを考えるようになった最近では先に述べた「自己表現」の考えも少し変化してきて、「自己表現」はあくまで副産物なのではないかと思うようになってきた。
結論から先に述べるためにここでまた一番最初の問いに戻る。
「人はなぜ 生まれ滅びるのか?」
その答え、その最たる目的は「自己表現」の奥にある「自己体験」ではないのかと考える。
先ほどの例えに出てきた「無人島で生まれてすぐに死んでしまった赤ん坊」にこの「自己体験」を当てはめて考えてみるとその赤ん坊は、
「生まれてすぐに死んでしまう生命とはどういうことなのか?」ということを自らが体験するために生まれてきたということになる。
その体験をするために魂に肉体が与えられたのではないかと思うようになった。
「そんなことを体験したがる人間がこの世界にいるはずはない」と思われるかもしれないがネガティブな体験であれポジティブな体験であれそれには必ず意味がある。
求められている。
魂という存在があると仮定して
まずこのことを説明するためには「魂」という永遠の存在があるものと仮定して話をしなくてはならない。
「魂」という言い方が気にいらないのなら「超意識」とか「自我を支える意識」などの言い方に置き換えても構わない。
仮に永遠の存在である魂というものがあるとする。
あるひとつの魂が生と死を、その人生を数え切れないほど繰り返す。
ある人生では王様として生きた。一度ならず飽きるまで様々な王としての人生を何万回と生きた。
またある人生では奴隷として生きた。一度と言わず飽きるまで同様の人生を繰り返した。
平凡な人生も数えきれないほど生きた。
波乱万丈な人生も数えきれないほど生きた。
栄光に満ちた人生も数えきれないほど生きた。
惨めさをかみしめ続けた人生も数えきれないほど生きた。
ある時は主役で、あるときは脇役でもあった。
ある時は長寿で、ある時は短命でもあった。
気の遠くなるような数、様々な人生を生きた。
その永遠とも思える時間の中で、魂はふと思う。
好奇心が湧く。
「生まれてすぐに死んでしまうってどういう感じなんだろう?経験してみたい」
そして同じくして別の魂もふと、思う。好奇心が湧く。
「最愛の我が子を生まれてすぐに失うってどういう感じなんだろう?経験してみたい」
こうして共通の目的を持ったふたつの魂の共謀が始まる。
その好奇心から湧き出た疑問を自らが体験するためには肉体が必要不可欠になる。
その「自己体験」を実現するための「生」であり、その「自己体験」を完結させるため、もしくはそのプロセスのための「死」である。忘却の魔法を行使するための「死」である。
それが生と死の意味であると考える。
どれだけ生きてどこの誰として生きるかはその人生を経験したいという魂のお膳立てにすぎない。
たとえばゲームを始める時にどのコマを選んでどのスタート地点からどんな属性でどんなハンデやアドバンテージをつけて始めるかを選ぶようなもの。
自分に降りかかった受け入れがたいネガティブな事柄も、心が身体が芯から震えるような喜びも、その「体験・経験」を得てそれを「表現」するためにすべて必要だった。
これが生きる意味だと考える。
「体験」を味わうためには肉体が、そして自分以外の存在が必要
たとえば学芸会で「桃太郎を演じてみたい」と思っても舞台にたった一人きりでは十分に桃太郎を演じたとは言えない。
おじいさんおばあさん、いぬさるきじ、そして「鬼」がいて初めて桃太郎を十分に演じたと言える。
桃太郎を舞台上で演じたという体験を味わうことができる。
「鬼」の役なんてだれもやりたがらない。と思わるかもしれないが何百回何千回と桃太郎を演じてみれば「たまには鬼の役もやってみたい」と思うようになるのでは?
たとえば気の遠くなるほどの長い時間、甘い飴を舐め続けていればたまには辛いものも食べたくなるもの。これがネガティブな経験を望む動機と考える。
体験と表現は表裏一体
これらの自己体験の過程の中で「自己表現」が生まれる。
自己表現というな名の「ギフト(贈り物)」がそれぞれの魂の間で交わされる。
そのやり取りは人が生を受けた瞬間から起きている。
「生まれてきてくれてありがとう」
「産んでくれてありがとう」
この誕生という自己体験からの自己表現のやりとりが生まれた瞬間から始まっている。
この世界に生を受けるという体験、それに伴う表現。
この世界に命を産み落としたという体験、それに伴う表現。
そういったやり取りは生まれたときから当たり前のようにある。
出産などの特別なことに限らず日々の日常の何気ないことのすべての中に当たり前のようにある。
空気や引力のように当たり前のようにあるので見えづらい、気づきにくい。
なので「生と死の意味」もしくは「生きる意味」が分かりにくく見えにくくなっている。
我々はこの身体を使って「体験・経験」というものを味わうために自らが選択してこの世界に来ている。
喜びも痛みも可笑しさも苦さも「体験・経験」という名のもとにすべて平等に好きなだけ味わうためにこの世界に来ている。
「自己表現」は「自己体験」から発生し、関わる人すべてにそのやりとりがスパークする。
目には見えないそのやりとりの火花が生命の輝きとして日々日常を照らし続けている。
ここ総合病院で感じた自己表現のやりとり
ここ総合病院の外科外来では頭をすっぽり覆う帽子を深く被ってマスクをした女性をチラホラ見かける。
あくまで推測だが僕と同じ待合室で待ってるということはおそらくは癌、乳癌とかの治療されてる方だと思う。
その方々は乳癌であることを自己体験しながら乳癌であることを自己表現している。
そんな姿を見て僕は乳癌であることのほんの一部をその自己表現からいただく。
これもあくまで仮定の話だが、その女性の魂は永遠の中のあるときふと「乳癌にかかるってどういうことなんだろう、それを体験してみたい」と思ったのかもしれない。
そして僕の魂は永遠の中のあるとき「乳癌の治療中の女性を直に見るってどういうことなんだろう、その体験をしてみたい」 と思ったのかもしれない。
ほんの一瞥(いちべつ)の出会いだがそこには共謀するふたつの魂がある。
小児病棟の廊下で難病と闘う小さな少年とすれ違ったときも同様のことが言える。
これはほんの一例で他にも耳をすませば、目を凝らせば日常すべてに魂の共謀がある。
ポジティブな事柄もネガティブな事柄も自分が味わい経験するためのもの。
そう思うと自由になれる。
それはギフトでもある。
知らず知らずのうちに差し出し、または受け取っている贈り物。
奇跡の数はそれを受け取る者の感性に左右される。
これがこの世界に生まれてきた意味。そして肉体が滅んでいく意味なのだと今は思う。
これは僕がこの世界に投げた小さな箱。誰が見つけても見つけなくても開けても開けなくてもかまわない
これが今の僕が考える死生観。
もちろんこのことが「真理」であると言う気はさらさらないし、僕のこの考え自体この先変化していくかもしれない。
「ただの癌患者が考える生と死について」だということを留意していただきたい。
ステージ4の大腸癌だと言われ、死の恐怖に翻弄され自分の感情を丸裸にされたときこの考え、思考が浮かんできた。
ただそれだけのこと。
僕のほんのささいな自己表現にすぎないのだから。
そしてこの表現を見つけ出してくれてありがとう。
触れてくれてありがとうと震える心で僕は言いたい。