44歳の僕がステージ4の大腸がんと診断されて

2016年大腸がん発覚。手術後、腹膜への転移が確認されステージⅣだと告知される。その後半年間に及ぶベクティビックス抗がん剤治療を受ける。2018年12月がん再発。アバスチン抗がん剤治療を受ける。48歳になりました。

8クール目の抗がん剤投薬での入院最終日と病室で考える「人が人生を終える意味」とは【がん闘病記88】

この記事ではヨシノ (id:yo_kmr)が2016年の10月下旬ごろに書いたメモをまとめています。

8クール目の抗がん剤投薬での入院2日目

2016年10月。

さすがに抗がん剤治療も8回目となるとつらさが増してくる気がする。

細胞毒が体内に蓄積していってるのだろうか、総合的に体力も落ちてきていると思う。

立ってじっとしている事すらつらくなってきている。

副作用としては倦怠感がつらさ度で6くらい、それと少し吐き気があるのかも。

つらさレベル6

そして今日はいつもの時間にまだ便がでていないので、もしかしたら便秘気味なのかもしれない。

勇者の毛根

入院しているとほとんどの時間を病室のベッドの上で過ごすので今までの気が付かなかった抜け毛の多さに気づく。

なぜなら枕にたくさん抜け毛が付いているから。

シャンプーの時だけではなく日中普通に過ごしている時もどんどん毛が抜けていってるのだなあと改めて思い知らされる。というか、その量の多さに驚く。

久しぶりに会う人からは「髪の毛薄くなったね」と言われるし、普段顔を突き合わせてる母にすら薄さを指摘されるのでいよいよかとも思ったりする。

しかし、不思議なもので一気にごそっとは抜けずに、毎日一定量抜けていってるような感じがする。

担当医のウエノ先生が言うには

「抗がん剤は一種の細胞毒だから毛根に影響が出る人もいますよ」

とのことだが、今残ってる髪の毛の毛根たちはそんな細胞毒に耐え続けてきた歴戦の勇者たちなのか。

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そんな勇者たちも日ごとにその命を散らせていく、まさに髪の毛が散り落ちるように。

 

最後の点滴

16:40ごろ、最後の点滴が始まった。

この点滴はとにかく長くて22時間くらいはかかる。

少しづつゆっくりと体内に入れていく点滴だ。

気分は良くない。

食欲もないし、吐き気もあるような気がする。

とにかく横になっていたい。

残り約22時間頑張って耐えよう。

 

僕は死刑囚じゃない

ステージ4の大腸癌だと診断されて、僕は一時期自分自身に死刑宣告をされたようなものだと思っていた。

癌と診断される以前の僕は普段の会話で癌の話題が出るたびに

「僕くらいの歳で癌になったら、そりゃあ命は無いですよ」

とよく言っていたものだ。

自分自身の中でも「癌=死」という図式がしっかりと出来ていたのだろう。

でもよくよく考えてみれば実際の死刑囚の人たちとは違って100%死が決定しているわけでは無い。

正確にいうと全ての生きとし生けるものに死は確定しているものだけど、死刑囚の人たちは社会からの制裁というカタチでの死が確定している。

それと同様に僕も僕自身の癌が100%僕を殺すものだと、僕を死に至らしめるものだと勝手に思い込んでいた。

でもそれは大きな誤解で、決して100%ではない。

選択権はまだ僕自身に残されている、あらゆる可能性を試すことができる、足掻くことができる。

この点が僕が死刑囚ではない大きな要因のひとつだと言える。

僕以外の他者に僕自身の生殺与奪の権限を渡していない点だ。

社会は僕を殺さない、癌は僕を殺さない、選ぶのは僕自身であり決めるのは僕自身だ。

僕を殺すのは僕であり、

また僕を生かすのも僕自身なんだと思う。

 

8クール目の抗がん剤投薬での入院最終日。

早朝5時ごろいったん目が覚めたが、病室のベッドの上でストレッチと1時間弱の瞑想をして朝食を食べた後は昼まで寝ていた。

眠れるなら眠っていた方が楽だし、起きた後もどちらかというと気分がいい気がする。 

人生を終える理由のひとつ

入院中は基本的にはヒマなので、病室のベッドの上でいろいろと考える。

最近考えたことは、人が人生を終える理由ってなんだろう?ってこと。

人がその人生を終える理由の一つに「人生に対する飽き」というものがあるのだと思う。

これはまた僕の勝手な憶測で、特にこれといった根拠があるわけでも何でもないんだけど、その理由として…

人は年を重ねるごと、毎分毎秒時間を重ねるごとに自分自身に起こるあらゆる事柄についての新鮮さを失っていく。

たとえば…

  • 初めて誕生日のケーキに刺さったロウソクを吹き消した時、
  • 初めて自分には到底無理だと思っていた木の上まで登ってそこからの景色を見た時、
  • 初めて好きな異性に告白した時、
  • 初めて自分がこれまで欲しくてたまらなかった車が納車され、運転席に座ってハンドルを握った時、
  • 初めて友達ができた時、
  • 初めて大切な人が亡くなった時、
  • 初めて風に吹かれ、太陽に温められ木漏れ日の下で眠り、海の水の辛さを知った時、

などなど。

そんな「初めて」は自分がこの世界に生れ落ち、経験を重ねるごとに急速に消費されていく。

「初めて」を求めてやまない「人間の内なる好奇心」がその消費を加速させていく。

一度経験してしまえばそれは「初めて」ではなくなる。

そして行き着く先は「初めて」が無くなった世界。

厳密に言うと今までの経験からおおよその予想がつく世界。

そんな世界が待っている。

 

新鮮な経験。

みずみずしい体験。

 

そんなことは何ひとつ残っていないと思わせるそんな世界が待っている。

そうなると人生全体に「飽き」というか消化試合感が出てくる。

それを解消するには「忘却の魔法」を使うしかない。

記憶をすべて消し去りリセットする。

「人生が終わる」その意味はその為のプロセスのひとつであるのかもしれない。

だから不老不死になんてなったら大変だ。

最初の100年くらいはまあいいだろうけど、その後は新鮮さが失われた色褪せた世界で永遠に生きていかなくてはならない。

魂は肉体に固定されたまま、気の遠くなる時間をその「肉体という名の独房」で過ごす。

何を食べてみても「食べたことのあるような味」

どんな映画やドラマを見ても「どこかで見たことがあるようなストーリー」

どんな歌を聞いても「既に聞いたことがあるようなメロディ」

どんな場所に行っても「どこかで見たような景色」

枯れるということは新鮮さを失うこと。

不老不死になるということは枯れながらにして永遠を生きるということ。

そう考えると永遠の命もちょっとどうかと思う。

なかなか大変なことだよ、これは。

投薬終了

15:00ちょいすぎ8クール目の抗がん剤投薬が終わった。

今回は比較的早く終わった気がする。

今、退院の手続きをすべて終えて病院の外に出てバスを待っている。

やはり病室を出て外の空気を吸うと気持ちがいい。

抗がん剤の副作用の倦怠感があって正直身体はフラフラなんだけどやっぱり開放感が違う。

早くバスがこないかな。

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